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銀座六丁目すずらん通り(SUZURAN STREET)を
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銀座コラム vol.2

銀座6丁目に、
佐久間象山の
塾があった!

(写真左)看板先の信号を右折すると「みゆき通り」。(写真右)右側の歩道を20m程行くと看板があります。

2018年は、明治維新からちょうど150年。維新に関係深い土地では、様々なイベントで盛り上がっています。今回は、幕末の志士たちに大きな影響を与えた佐久間象山(さくましょうざん)についてのお話です。佐久間象山は、幕末の天才と呼ばれた人物で、洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもち、当時の日本最高の知識人と言われていました。洋式軍学の専門家ですから、大砲の鋳造はもちろん、カメラや地震予知機まで洋書だけを頼りに自分で作り上げたという逸話も残っている人物です。門人には、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本佐内、山本覚馬ら文字通り新しい時代を作った俊才たちがずらりと並んでいます。その佐久間象山の砲術・兵学の塾が、木挽町(現在の銀座6丁目でんぱつビルあたり)にあったのです。名前を「五月塾」といい、1851年に開かれました。昭和通りと交差するみゆき通り沿い20mほどのところ、でんぱつビルの前に説明板が建っています。

佐久間象山塾跡の説明版

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図という古地図

当時このあたりは有名人たちの居住区でした。江戸幕府の奥絵師である狩野勝川の画塾が向かい側にあり、その土地は、老中 田沼意次のものだったといいます。象山の五月塾のあった土地の地主は、旗本 諏訪庄助の弟 浦上四九三郎。その隣の家は、大名 松平周防守でした。大変にセレブなエリアだったことが分かります。
この塾には、有能な人物がたくさん集まりましたが、1854年に門人の吉田松陰が、ペリー二度目の来航時、アメリカ密航を企て失敗した事件に連座して、象山は地元 松代藩で蟄居を命ぜられ、同時に塾も閉鎖されてしまいました。

わずか3年ですが、いろいろなドラマがありました。銀座を歩くと、こんな幕末の時に思いをはせることができます。

佐久間象山(国会図書館所蔵)