大正時代に入ると、ハイカラな雰囲気に包まれた街はますます活気づいていきます。新しいモノやコト、そして多くの人々が行き交う銀座に文化人たちがこぞって集うようになりました。彼らが好んで足を運んだのが、日本初のカフェー「プランタン」です。
創業者である洋画家の松山省三は自身の著書で「ミルクホールやビヤホールでは殺風景だし、待合では困る連中が多い、何処か悠々と話し込むだり、人を待合せたり出来る欧羅巴のカフヱーな様な所が一ツ欲しいもんだ」(松山省三著「プランタン今昔」/『文藝春秋』1928年9月号)と述べ、友人で同じく洋画家である平岡権八郎、劇作家・小山内薫、建築家の古宇田實や岡田信一郎、洋画家の青山熊治、岸田劉生、岡本帰一らとともに、1911年(明治44年)現在の銀座8丁目、並木通り沿いに「カフェー・プランタン」を立ち上げます。当時、文化的サロンの役割も担っていたカフェーには、松山の恩師である黒田清輝や和田英作、作家の森鷗外、北原白秋、永井荷風、谷崎潤一郎や高村光太郎といった文学者をはじめ、市川左團次ら歌舞伎役者なども名を連ね、若き日の文人や画家が芸術談議に花を咲かせて賑わっていました。時代の流れに乗り、「パウリスタ」や「ライオン」といった人気カフェーが続々と開店すると、銀座はより一層華やぎを見せ、憧れの街としてさらに注目を集めていくのでした。